気学に関する伝承と書籍 気学天道会

下記の文章の後に書籍が出てきます。(文章に出て来る書籍)

気学は大気の学問であります。

(一) 気 学 の 語 源

 気学と言う言葉は明治二十年頃から言われ、大自然はすべて空気
ら成立しているという哲学的立場から、これを表示する言葉として
即ち空気に関する学問ということであります。



空気の発見 三宅泰雄著



哲学

(二) 気学思想の根本

 大自然の森羅万象はすべて空気によって構成されていると考えま
す。その空気は非常に微小な粒子であり、八角立方体をなしておりま
す。その空気の集まり方によって色々な物体が構成されており、その
空気は九種あると考えます。又空気は実体作用を持っており大自然
の森羅万象の実体と作用を人に教えていると考えます。
 又大自然は現存の人の世界から考えますと、人の出生前、生存中、
死後の世界があると考えます。
 こうした大自然を説明する学問が気学であります。
 故に気学は、人の生活に関する一切の問題について説明しておりま
す。
 気学の初めは、支那の太古時代の帝伏義と先聖大の創見大悟され
哲学であり、東洋哲学の源泉であります。
 後述しますが、先天の盤、後天定位の盤、年月日時の四盤の発見は
今日の原子力の発見以上の発見と思います。これ等の学問が五千年の
古代に発見され伝承されてきた事は、実に古代人の偉大さを思わせま
す。
 この気学を悟る事が気学の研究であります。

(三) 気学思想の伝承

 気学は東洋の古代哲人によって発見され、支那古代からの帝王
よって活用されて来ました。日本では皇室に八咫哲理として伝承さ
れ、役の行者から吉田神道に、又大峰山修験道から山伏を通じて
分寺
に伝わりました。
 又弘法大使によって高野山真言宗伝教大使によって比叡山の
台宗
で教導されました。鑑真和尚の開創した律宗総本山の唐招提寺
て軍事気学として竹中半兵衛山鹿素行天海大僧正等により伝承さ
れました。又貝原益軒により本草学として薬草方面に伝承されて来ま
した。
 このように我が国では、支那大陸からの文明の流入によって井田
その他産業方面、又は都市計画、教育方面、医薬方面等に伝承活用さ
れて来ました。
更に日本の皇室には八咫哲学として、治平天下の神爾として伝承さ
れました。
皇室の神殿は、明治大帝江戸遷都の時に吉田神社八神殿を奉祭
せられて今日に到っております。
以上のような歴史的伝承が、明治の初期に荻野地角先生により集約指
導され、その直門である園田真次郎先生が関東において大正館を開設
され、田中胎東先生が関西において気学講堂を創立されました。恩師
田中胎東先生によって「気学入門」「気学の提唱」「三界と家」「九
気密意」「九気建築学」の諸著書の発行並びに極意三密の教導等に
よって気学体系を完成されました

(四) 気学の活用範囲

 気学は大自然の哲理の活用でありますから、すべての科学を先導し
ます。
 従って政治、文化、経済等の全般に活用されるものであります。
 私共は先ず自分の天運改善に気学を活用します。そして自己の健康
を改善します。病気を追い出し健康に進みます。家庭の平和を図りま
す。子女の生育、教育の完成を図ります。自己の営業の発展を図りま
す。自己の社会的栄達を図ります。こうした自己の天運の向上改善を
図りますと、自然に人の社会人としての処世を良化し得ます。社会人
としての気学の活用は会社、工場、商店等の天運を改善しますから、

それぞれに関係する人々の天運の向上が出来ます。
 更に気学の活用は、人が社会的に関与する官庁学校等すべての集団
に善用され、政治的には都市計画、国政に至るまで活用されます。
 又別言しますと医学、法律学、芸術学、理化学、或いは発明発見に活
用されて、すべての科学を先導して、文化の発達の基本的指導が出来
るものです。

(五) 気学研究者の自重と努力

 気学の研究をはじめると、最初から人の天運を指摘したり、占断が
出来ますが、人の天運は決して簡単なものでありませんから、余りに
速断して自ら神様になった様な感違いを起こし易いものですから、自
重して下さい。人の天運指導は非常に困難なものですから、十分研究
を深くしてから鑑定すべきです。気学哲理の活用は人の天運鑑定が出
来ますが人の天運鑑定は次の天運指導の目的にありますから、先ず
自己の天運を鑑定し、自己の天運改善に努力すべきです。
 それには是非とも先輩の指導を仰ぐことです。即ち自分の事は自分
で決定せず、必ず先達者に従うということが大切です。
 尚気学哲理の研究並びに活用は、自己並びに周囲の人々に進め、大
は人類の文化の発展に活用するのを理想とすべきものであります。

気学講堂解説
天道会は気学講堂の宗家、田中胎東先生の伝統を継承して気学の研
究並びに指導をしております。
従って天道会の血縁者は気学講堂についてその歴史を知り、宗家、
田中胎東先生の偉業を知って頂きたいと思います。
気学講堂は昭和4年11月23日京都府乙訓郡向日町上植の十番
地に創立されました。その後昭和12年春、京都市嵯峨小倉山に移転
されました。当時の気学講堂の構成は京都に本部がありまして、地方
に東京、神奈川、千葉、山梨、埼玉、大阪、静岡、愛知、兵庫、群馬、
長野、福岡の12支舎が設置されておりました。また気学的指導集団
として九六教導部会、気薬理医部会、理気作胎部会、気学天壇、気育
安居所、気学祐保会、気学修育会が組織されておりました。
昭和13年4月気学講堂は解散しましたが、宗家、田中胎東先生の
直門である小菅優子先生並びに私が今日気学講堂の伝統を継
承して、気学の研究並びに指導に当たっております。勿論その他の直門
緒先生も気学講堂の精神を伝承されておられます。

相羽鴻賢著

私は昭和八年以来気学の研究を続けて来ました。当時田中胎東先生
が宗家として指導されておりました気学講堂に入門しました。
 昭和十三年四月、気学講堂は解散されましたがその間に田中胎東先
生から直々に御指導を得まして、気学入門、奥伝高等科、極意三密科
のご教授を得ました。その後気学の研究を続け又気学の講習指導をし
て来ました。気学講堂の指導はすべて口伝でありました。私の指導も
口伝の方法を続けて来ましたが、昭和三十年七月三十日に「気学入門
講習書」を出版しまして、講習書による指導を始めました。その後
「家相の真秘」を昭和三十年九月一日に出版発行致し、奥伝高等科、
極意三密科の口伝の講習と共に気学の教育指導に当たって参りまし
た。
 以来四十年の気学の研究指導の経過から見て、今回次の時代に対す
る指導方針を改善して新発足を計画致しました。
 今回発行の「気学入門講座」はこの気学指導の構相に基づき、新し
く執筆をしました。
 気学の研究は各人の天運開発の目的にありますが、従来の指導方法
が口伝的指導であり、その著書も原理を説明するだけに留めました。
しかし気学の研究が個人の秘密的行き方から一歩前進して、各人の天
運開発に集団的行き方の必要を感じまして、気学研究者の各自が、自
習研究に容易であるように、気学原理の詳細説明の著書を計画したわ
けであります。
 今回再発行の「気学入門講座」は読者が各自に気学の理解を深め、
指導者同好者がお互に協力して気学の理解を一層前進させる事が出来
る様に工夫致しました。
 しかし気学の研究は、各自が気学を悟って頂く事が大切でありまし
てそれには祐気撰用といって各自の天運向上の為に、良い方位に良い
時に良い九気を得る為に、散歩又は旅行等の簡単な方法から出発して
努力して頂く事が大切であります。
 この祐気撰用を実行してゆく時に気学の哲理が理解され、悟りの生
活に入ります。
 気学は難解な学問ですが、先ず気学入門の初歩から出発してこれを
悟り、次に奥伝高等科の研究へと進んで頂きたいと思います。
 気学入門講座の研究は各自が自分の事を悟る所まで進み、奥伝高等
科は他人の事を理解し指導し得る所まで進み得ます。
 本書の研究に依って各自の本命を知り、過去の移居動身の実情を調
査し、その良否による各自の天運の在り方を悟って頂きたいと思いま
す。
 本書の研究は各自精読されると共に、友人等とお互に質問協議され
て四回以上精読される事をお進め致します。
 次に人の天運は親子兄弟又は友人、知己等すべて各人それぞれの天
運を持っております。
 気学の研究は先ず自己の天運を悟り、次いで他人の天運を知って自
己並びに周囲の天運を改善してゆくのが目的であります。
 各自は生誕による先天の運を持ち、生誕後はその住家の家相又は移
居動身による後天の運を持っております。
 この後天の運を改善して幸福な生活に進むのが大切であります。
 それには気学を研究して、大自然の理法を活用するにあります。世
の中に迷信は八分の一あります。気学を研究して正信する必要があり
ます。気学の哲理を応用しますと、自然の働きを正解し、将来を先見
先知して人生の指針を発見し、或いは病気の原因、貧の原因、苦悩の原
因、事件の原因とその結果を洞察し得て、健康な生活、富貴への希望
に進み幸福な処世が出来ます。
 しかし気学は難解で深遠な学問ですから、時間をかけて研究され、
正解されて、気学の哲理の活用に過誤のない様注意される事を要望し
ます。
 「人は人に誤られる天運、又自ら誤る天運を持っておりますから、物
事は三度聞き三度見て実行するという生活態度を要します。
 気学の研究、気学の哲理の活用に於ける態度もまたこれを必要とし
ます。」

相羽鴻賢著

気学とは
≪気学≫とは、園田真次郎(西暦1876〜1961年)氏の命名による
呼称で、在世当時園田氏と比肩して斯道を研究していた飯田天涯氏は(方相
学)という名称を用いていた。
この(方相学)には、つぎの四大部門が含まれている。その第一は「性運学」
で、歳月の推移によって出生する人の性格運命を研究するもの、第二は「方鑑
学」といい、日常の行動に関する方向を選んで目的達成をはかる研究、第
三は「家相学」で、住宅・店舗・工場などの家屋の構造と人の運命との関係を
研究するもの、第四は「流年学」といい、時の推移による運勢、活動力の盛衰
を研究するものである。
これら四つの総称として名づけられた<方相学>は、太陽と地球との方位関係に
もとづく人間運気の種種相であると定義しているのであるが、園田氏が呼称した
<<気学>>も、飯田氏の<方相学>も、その学問の内容とするところはまったく同じ
ものと判断してよいと思う。
編者は、@干支(十干・十二支)や九星の基礎知識と、これによる人の性格と運勢、
夫婦・男女・主従の合い性、各星に基づく運の消長などを研究する十干・十二支・
九星の学、A方位を主として研究する方位学、B家相を主として研究する家相学、
C地相を研究する地相学、以上の四つを総括したものが<<気学>>と称する学問で
あると解釈してよいと考える。
ただし、@の十干・十二支・九星の学は、A方位学、Bの家相学、Cの地相学の
基礎となるものであると同時に、この四者は相関連しているため、これらを総合活用
することによってのみ完全な効果が収められるものであることを一言つけ加えておき
たいのである。
さて、<<気学>>という名称は、「空気の学問」というような言葉の上の印象をあた
えるが、それは事実その通りで、太陽と地球のと間、すなわち宇宙には大気が充満
しているが、この大気は陰陽五行、十干・十二支・九星の支配を受けている。
また、人がこの世に呱々の声をあげると、その瞬間に大気の微量を吸い込み、その
人の体(詳しくは肺臓内)に保気ができる。家屋を建築すれば、大気の一部がその
家屋の内部にこもることになり、そこに空気が保たれ保気ができる。
この人間や家屋の保気もまた、四時(年・月・日・刻)の陰陽五行の支配を受けるも
のであって、人間や家屋の保気と、宇宙の大気との関係を、陰陽五行の法則にした
がって研究するところから、空気の学問、保気の学問という意味から園田氏が
<<気学>>と呼称されたものと思う。
<<気学>>なる呼称以前には、天海僧正による天源術のほか、天源淘宮術・
開運淘宮術(奥野南ト・横山丸三)、あるいは 遁甲八門・陰陽学・干支術・九星術
・方位学(方鑑学・方象学)・家相学(宅相学)…などと、その時代に即し、或はまた
その内容に応じていろいろと呼称されたものと思う。

気学の起源と変遷
わが国への伝来と変遷
中国で生まれたこの学問が、わが国へ伝来したのは、大陸に新文化が展開し
たのと同時であったといえる。今、当初からその後の変遷をかんたんに時代を
追って略記してみよう。
飛鳥時代(〜西暦707年)
日本歴史がわれわれの前に明らかな姿をあらわしはじめたこの飛鳥時代に、
大陸の新文化が移入されて来たのである。すなわち、第29代欽明天皇の御
代(西暦53年)に百済(朝鮮)の聖明王がはじめて易・暦・医・その他の書物
を献上した。ついで、第33代推古天皇の御代の9年(602年)に、百済の
僧観勒が渡来して暦本・天文・地理・ 遁甲・方術などの書籍を献上した。その
翌603年に摂政聖徳太子が冠位12階を制定し、さらにその翌604年には
日本最初の憲法、すなわち一に曰く、和をもって貴しなし、逆らうことなきを
宗とせよ・・・・」「二に曰く、篤く三宝を・・・」などで有名な憲法17条
を制定した。
しかし、当時はまだ、この献上され、新しく渡来した学問文化は、上層知識
階級である貴族や僧侶などの限られた一部の人達の間でしか知られては
いなかった。
奈良時代(708〜781年)
和銅5年(713年)古事記、日本書紀
遣唐使として・・・吉備真備・・儒学・天文・兵学に関する書籍を持ち帰って
献上し、陰陽道を司って大臣の位についた。
平安時代(782〜1181年)
弘法大師空海上人・・・・
蜻蛉日記(954〜974年)や源氏物語(1000年頃)
の中に、「方塞がり」や「方違い」(現在は方位転居)などという
言葉が出てくることによって知る事ができる。
鎌倉時代(1182〜1333年)
にかけて法然上人、親鸞上人、日蓮上人、のような高僧がこの道の蘊奥をきわめた。
南北朝時代(1334〜1389年)
楠木正成(1294〜1336年)がこの道を兵法に活用し、皇室に逆らう賊軍
楠木正成

を悩ましたことは太平記に書かれている。
室町・戦国・安土桃山時代(1390〜1603年)
高僧蓮如上人(1415〜1499年)と武将太田道灌(1432〜148
6年が特にこの道を究めた。ことに太田道灌は扇谷上杉家のために家相学
を応用して江戸城を築き、また方位学を兵法に運用して敵を攻略した事は有
名である。
ときの傑天海僧正はこの道の奥義を究め、はじめ甲斐の武田信玄に仕えて
軍略の妙発揮しため徳川家康の招くところとなった。
ちょうどその頃、武将真田幸村(1567〜1615年)も陰陽学、方位家
相学を究めて兵法に長けていた。1614年大阪冬の陣に豊臣秀頼の招きに応
じて種種献策したのであるが、淀君の用いるところとならず、豊臣家は天海が
陰についている家康のために城の堀を土で埋められて、滅びてしまったの
である。
江戸時代(1603〜1867年)
徳川家康が天下を平定して江戸城に入り、江戸幕府を開いたが、天海僧正は
秀忠・家光の三代に仕えて、徳川家をして十五代2百70年の覇をなさしめる
礎を作った。(天下平定のため暦を一部変えてしまったと聞く)
江戸時代の末期になってこの道に関する研究熱が燃えさかって、多くの
学者がたくさんの書物を雨後の筍のように世に送り出した。中でも神谷
古暦、松浦琴鶴、多田鳴鳳のごときは当時の特に銘記すべきこの道の学者と
いうことが出来よう。
明治・大正・昭和(1867〜1974年)
明治21年に尾島碩聞が実に多くの書物を読んで方位学と家相学に関す
る書物を格三冊ずつ著した。
大正から昭和の時代にかけて園田真次郎氏が独学でこの道の薀蓄をかたむけ、
三十数冊に及ぶ緒述を世に送った。そしてこの学問を(気学)と呼称
した。
なお、園田真次郎氏と・のごとくこの道の造詣を極めた田中胎東・飯田天涯
氏等にも共に立派な著書が遺されている。
          気学の普及
人はこの世に生を享けた時から、その人の天運によって、それぞれ
の生涯を過すものであります。
天運には、各人が生れ乍らに持っている先天的な運と、生誕してか
ら後の身辺の異動、生活環境の変化によって、影響されるところの後
天的な運との二つがあります。
気学は、中国が発見した学問であって、人が誰でも持つ先天的な運
勢を通じて、後天的な運勢を予測し、更に後天運を整理分析すること
によって、これから自分にふりかかってくる、病苦や悲運の、避け得
られるものを避けることによって、天運を最良のものとする技術を習
得し、自己の努力によって、後天運を開発する道を教えるものであり
ます。
このような、気学の哲理や、後天運の好転をはかる実践方法は、昔
時から深奥深遠な秘法として、一般には公開されず、師から弟子に口
伝するという、伝授形式によってのみ伝えられて来たのであります。
この度天道会は、旧態を打破して、気学の普及を意図し、多くの方
々の為に研究の機会をつくって、後天的な運勢を自ら開発し、幸福安
定した生活を営む人を、一人でも多く作りたいという考えから「気学
入門講座」の上梓領布に踏み切ったことは、時節柄結構なことだと思
うものであります。
科学万能の気風の強い今日、科学は日進月歩の発展を遂げて居りま
すので、凡ての事物が科学によって、解決されているように、過大視
されて居るようですが、事実は意外にも、この世の中には、まだまだ
人間のとてもつかみ得ない不可思議が、数多く存在して居りまして、科
学が総てを解決しているとは、申せないのであります。
たとえば
一、 地震の起こるのを前以て知ることが出来ない。
二、 大事故や大災害、戦争の発生を予知出来ない。
三、 病苦、人間同志の憎悪葛藤を防ぐことは出来ない。
など、人間の幸福を助成することに関しては、未だまだ科学は、無
力貧困だといって良いのであります。
そればかりでなく、一瞬にして即発するところの、大事故や大災害
に、当然遭遇する筈の立場に在り乍ら、その時の偶然的な行動によっ
て、全く奇蹟的に災厄を免れたというような、不思議といったような
ことを、大なり小なり皆様方も、耳目を通して経験なさったことがあ
ると思います。
ほんの一例を、蛇足的に挙げて見ますなら、「二分早くその家を辞
した為に、事故に逢わなかった」とか「自動車が遅れて予定の汽車に
乗れなかったのが、衝突の災害を避け得られた」というようなことで
す。
このようなことを、一寸した偶然だとか、運が良かったとかいって
軽く済ませて居りますが、これは単なる偶然の所産ではなく、後天的
な運命の糸につながるものなのであります。
人が生れてからこの方、時々刻々と移り変る自然の動きに、実際は
大きく影響されているものであります。
住所から他の場所へ通うとか、或は旅行するとか、移転するという
ような、生活上必要として移動したことが、実は後天的な運を、大な
り小なり左右しているのです。
生れてからこの方の、動いた方向や環境、移転、旅行など、生活上
のやむを得ない動きが、後天的な運命の変化を、斉すものであります
から、これを事前に察知することが出来て、その悪しき運を避け、良
き運に従う方法がわかり、それを自己の努力で達成出来るとなれば、
人間の一生にとって、これほど自信の裏づけとなり、生涯を感ずる
ことは、他に例はないと思います。
気学はこの為に存在している学問であります。
気学は、地球上に棲息する、生きとし生くる者の実態を科学し、草
木の在り方、 虫魚鳥獣の習性と本能による行動や、その生態を科学し
易教の哲理を合せ、これを解明したものでありまして、曽ての自然人
が持っていながら、何時の間にか喪失するに至った、本能の働きを重
視し、これを現代の複雑多岐な、人の生活の上に再現する為に、自己
の運命を自ら拓く力を与える、哲理と技法が気学であります。
天道会は、その哲理と技法を理解させて、実践にみちびき、人の生
活に光明を与えることを念願とするものであります。
自己の運命の好転を計り、自らの生活に希望を持つ喜びを味い、更
にこれを周囲に及ぼして頂きたいと思います。
上記の文章に登場する人物・文献・書籍の写真の掲載が終わりました。
上記の文章に出て来る書籍で本棚一つ埋まってしまいました。
気学は森羅万象に関与しています。
皇室 516頁 粒子
神武天皇(八咫に関係有り) 八咫
森羅万象 原始時代より太古時代まで
吉田神道の基礎的研究 604頁 役の行者
吉田神道 修験道 
山伏 比叡山
高野山 国分寺
東洋哲学 日本陰陽道
哲理 安部晴明 大陰陽師
弘法大師 伝教大使
眞言宗讀本 天台宗讀本
鑑真和尚 竹中半兵衛
唐招提寺への道 遣唐使
山鹿素行 天海大僧正
貝原益軒 明治大帝 上下巻
井田制度研究 天運
陰陽五行説 実録 徳川家康
第29代欽明天皇 第33代推古天皇
摂政聖徳太子 古事記
日本書紀(全 5巻) 陰陽道
奈良時代の文化 陰陽道
吉備真備 蜻蛉日記
源氏物語(全3巻) 法然上人
親鸞上人 日蓮上人
豊臣秀頼 太平記
高僧蓮如上人 皇居外苑 太田道灌と江戸築城
上杉家 上杉氏家臣に関する考察 武田信玄
徳川家康 武将真田幸村
淀君 豊臣秀吉
徳川秀忠 徳川家光(一、二)
織田信長 役行者と修験道の歴史
天皇の起原 蜻蛉日記 譯注と評論
江戸庶民の暮らし 明治庶民の暮らし
易経 原子力
貴族 上下 僧侶
比叡山延暦寺 大自然

日本の歴史
第00巻「日本」とは何か 〜 〜第25巻 日本はどこへ行くのか
第01巻 縄文の生活誌
 (旧石器時代〜縄文時代)
第02巻 王権誕生
 (弥生時代〜古墳時代)
第03巻 大王から天皇へ
 (古墳時代〜飛鳥時代)
第04巻 平城木簡の世紀
 (奈良時代)
第05巻 律令国家の転換と「日本」
 (奈良時代末〜平安時代前記)
第06巻 道長と宮廷社会
 (平安時代中期)
第07巻 武士の成長院政
 (平安時代後期)
第08巻 古代天皇制を考える
 (古代史の論点)
第09巻 頼朝の天下草創
 (鎌倉時代前期)
第10巻 蒙古襲来徳政令
 (鎌倉時代後期)
第11巻 太平記の時代
 (南北時代)
第12巻 室町人の精神
 (室町時代)
第13巻 一揆戦国大名
 (室町時代末〜戦国時代)
第14巻 周縁から見た中世日本
 (中世史の論点)
第15巻 織豊政権と江戸幕府
 (織豊時代〜江戸時代初期)
第16巻 天下太平
 (江戸時代 17世紀)
第17巻 成熟する江戸
 (江戸時代 18世紀)
第18巻 開国と幕末変革
 (江戸時代 19世紀)
第19巻 文明としての江戸システム
 (近世史の論点)
第20巻 維新の構想と展開
 (明治時代前期)
第21巻 明治人の力量
 (明治時代後期)
第22巻 政党政治と天皇
 (大正時代〜昭和初期)
第23巻 帝国の昭和
 (昭和 戦前〜戦中期)
第24巻 戦後と高度成長の終焉
 (昭和・平成 戦後バブル崩壊後)

歴史
@ 聖徳太子と仏教 A 貴族の政治と文化
B ゆらぐ貴族政治 C 藤原一門の光と影
D 花開く 清和源氏 E 中世社会の展望
F 武家政治夜明け G おごる平家
H 崩れゆく平家 I 源平の戦い
J 鎌倉びとの哀歓 K 後醍醐天皇と足利尊氏
L南北朝の動乱 M 室町幕府と応仁の乱
N戦国乱世の群像 O 天下びとの時代
P 織田信長の悲劇 Q 豊臣秀吉と天下統一
R 関ヶ原の戦い前夜 S 関ヶ原の合戦
21 大阪落城 22 キリシタン一揆と信仰の悲劇
23 騒動に明け暮れる江戸権力 24 江戸をゆるがす人々 
25 黒舟の威容にゆれる人々 26 新しい時代と若き志士
27巻 易学古書店で

販売しています。39,312円
27 明治政府の胎動

その他の書籍
自然に学ぶ わが心の国分寺
「太平記」の構想と方法 明治大正史 全6巻
蓮如 日本史攷究
日本帝国の最期 地球のはなし
日本の道教遺跡を歩く 南北朝動乱と王権
その他の書籍

天海 役小角 読本
天海 天海
空海 楠木正成
楠木正成(上下巻) 新太平記(全5巻)
親鸞 修験道のはなし
軍師 竹中半兵衛 八尋舜右著 軍師 竹中半兵衛 笹沢左保著
神道の本 聖徳太子
役行者小角 志村有弘 聖徳太子
修験道の本 織田信長
道教 古神道
天海・光秀の謎
天海僧正と明智光秀は同一人物ではないかと云う書籍、338頁

暦と陰陽道に通じた軍配師
 戦国の世には武将を補佐する役目として軍配師なる人物がいた。軍配といっても
相撲の行司ではなく、戦術をサポートする、いわば軍師の役目をする人物のことで
ある。この軍配師になるには占筮術に長けていること、すなわち日の吉凶を知るよ
うな易占の知識があり、戦いに勝つための祈祷ができるということが必須条件であ
った。
 この軍配師は、山伏または法師陰陽師が担うことが多かった。法師陰陽師とは野
に下った陰陽師のことで、朝廷管轄の陰陽寮所属の陰陽師とは違い、密教や修験道
などの知識を取り入れた陰陽道の使い手である。その豊富な知識を自らの戦いに利
用しようと武家側からの要請も多く、その証拠に、軍配師を養成する学校まであっ
た。
 下野の国(今の栃木県)にあった足利学校は、本来易学の理論を教える所であっ
たが、実際には応用編である占筮術を学ぶために入学する者がほとんどであったと
いう。この学校は武将に仕えた多くの軍配師を輩出しており、徳川家康に仕えた有
名な天海もここで四年間学んでいる。
 このように戦国時代の武将たちは軍配師の意見を参考にして戦術をたて、自分に
有利な戦況に持ち込もうと必死だった。現実主義者で占いなど信じない織田信長で
さえも、伊東法師という軍配師を抱えていたのである。

 「旧暦で読み解く 日本の習わし」 大谷光男著より 大変良い本であります。
 購入して読んでみて下さいませ。

上記の文章には出てきませんが大谷光男著の書籍はどれもすばらしいです
金印研究論文集成 大谷光男著 386頁 易学古書店でも扱っています

天智天皇

持統天皇

皇統系図・皇室系図

もんむ‐てんのう【文武天皇】
律令国家確立期の天皇。草壁皇子の第1王子。
母は元明天皇。名は珂瑠かる。大宝律令を制定。
(在位697〜707)(683〜707)
暦・天文の研究機関であった陰陽寮
文武5年(701年)大宝律令制が調うと、暦に関する専門
知識人を養成する機関が公式に設置された。それは中務
省内にある陰陽寮(おんみょうりょう)といい、陰陽道
天文道、暦道の研究と知識を深める場所であった。陰陽
寮では陰陽頭という長の下、各道にも博士という責任者
がいた。暦道は、陰陽道や天文道に比べるとやや軽視さ
れていたが、他の二道より占い的、呪術的要素が最も少
なく、現代的観点からいえば化学的な研究をしていた部
門といえる。
平安初期の陰陽寮頭であった賀茂保憲は、後に実子である
光栄に暦道を伝え、以後暦道は賀茂家の家学となっていく
最近、小説や映画で取り上げられ知名度が増した安倍晴明
は天文道を授けられ、後に居住地にちなんで土御門家と名
乗り、代々受け継がれた。天文道の主な役割は天象に異常
あれば吉凶判断し、直ちに密封した勘文を上申することで
った。旧暦で読み解く日本の習わし 大谷光男著より

天武の時代(気学に関係有り)

 上記には出てこないが紹介しておきましょう。

 天武天皇  陰陽道の祖
 天文 遁甲が得意
 天武天皇(第四十代、?−≪朱鳥元≫)を陰陽師と呼ぶのは少々はばかれるが、自
らその業を得意としていたことは『日本書紀』に「天文 遁甲を能くした」と明記さ
れている。
 天文については言うまでもないが、 遁甲とは道教の中の方位術で、とくに兵法と
して用いられたものだ。偉大な方士であった太公望や諸葛孔明も得意としていたとさ
れる。また天武天皇は陰陽寮・陰陽師の制度を創始したことでもあるし、ともすれば
陰陽道の実践者であること公に自認していたのではないかと私は考えている。
 道教を父とし、古神道を母として、天武天皇が創始した究極の原理、あるいは完成
された世界観、それが「陰陽道」なのである。天武天皇ご自身がそうであってなんの
不思議もないというものだ。
 そもそも「天皇」という尊号は天武天皇が使い始めたもので、それ以前にはない。
語源は、道教の天皇大帝である。つづく(気学に関係有り)

陰陽道とは何か 日本史を呪縛する神秘の原理 戸谷 学著より
大変良い本であります。購入されて一読をお薦め致します。

てんむ‐てんのう【天武天皇】
7世紀後半の天皇。名は天渟中原瀛真人あまのぬなはらおきのまひと、また大海人
おおあま。舒明天皇の第3皇子。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の崩後、
壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮きよみはらのみやに即位する。
新たに八色姓やくさのかばねを制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修
に着手。(在位673〜686)( 〜686)(広辞苑より)

土御門殿・多田鳴鳳 洛地準則詳解 土御門殿・藤田乾堂・家地相と科学
号(神谷古歴)・家相玄機畧(全 5冊)
本名 神谷正晴
松浦琴鶴・家相秘伝集(全 2冊)
飯田天涯・家相方鑑大全
田中胎東・気学入門(気学天道会の宗家)
方鑑大成・尾島碩聞・三冊 家相新編・尾島碩聞・三冊

気学の根拠
―人間は気のそとでは生活できない―
 人間の生活は大気の中で営まれるものであって、いっときも大気から離れては生活すること
ができない。科学の進歩にともない、地球の圏外に飛び出し、月への飛行を試みることなどはあ
っても、その飛行者は完全な機密室の中で生活するとか、酸素を補給するためのマスクをかぶ
り、それによって呼吸することが必要であって、なんらかの方法で大気の延長しているなかにい
なければならない。
 人間の五体を包んでいる大気の作用は、人間の生活に密接不離のものであるが、それが金銭で
買うことを要しない無償のものであり、しかも誰のところにはあり、誰のところには行きわたら
ない、というようなエコヒイキがなく、広大にして普遍のものであるから、つい、そのありがた
みを気づかずに過すのである。
 しかし、人間の生活から外気を切り離しては考えられない。寒い冬の最中、ユカタ一枚で外気
のなかに立って入ればカゼをひくに決まっているし、暑い夏の日中にオーバーを着ておれといっ
ても、それはできない。また強い風が吹きつけるとき、それに逆らって歩行しようとすれば息苦
しくても困難であるし、順風を利用して帆をはれば、千石船さえも海上を走ることができる。
 これらのことから推して、大気に順応すれば物事は順調にはこび、それに逆行すれば困難に陥
ることは自明の理である。
 ところで気学の考え方によると、こういう肌にふれて感ずる大気ではないが、それと同じよう
に人間を包み、それと同じように人間の生活へ大きい作用をするところの気があるとみている。
 中国古代からの思想には、万物一切の形質はすべて気から成り立つものという考え方があっ
た。したがってその気が動静、往来、循環することによって四季の温冷寒暑となり、万物の成長
収蔵をきたし、人事の成敗得失にまでおよぶものと考えている。
 そういう考え方の根底となっている気が、すなわち気学でいうところの気であって、その気は
たえず往来、循環してやむことのないものであるが、しかもその往来、循環は一糸乱れることの
ない秩序にしたがっているというのである。
 その気は天地間に充満する一体の大気ではあるが、往来し、循環する順序に応じて木気、火
気、土気、金気、水気の五気に分けられるている。
 さらにまた木気は三碧、四緑、火気には九紫、土気は二黒、五黄、八白、金気は六白、七赤、
水気は一白というように九つの気に分けられている。
 これらの九気はじっと静止しているものでなく、年ごとに、月ごとに、日ごとに一定の決まり
をもって循環し、運行してやまないものとされている。
 すなわち、今年が九紫火気の年であれば、来年は八白土気、再来年は七赤金気というように、
数字を逆にかぞえて移り変わり、一白水気の次に九紫火気へ戻っていく。月でいえば今月が五
黄土気なら、来月は四緑木気、再来月が三碧木気という順になり、日も順次に九気が移り変
わることになっている。
 そこで、たとえば九紫火気の年、五黄土気の月、一白水気の日に、一人の赤児が誕生したとす
るならば、胎内から生まれでて、最初に大気を呼吸したその年、その月、その日の気によって運
勢の上に、大きい影響をうけるというのが気学の考え方である。
 生まれた年、生まれた月によってその人の運勢が左右されるという思想は、西洋においては占
星術が起こったバリロニア時代からすでにあったし、中国大陸では三千五百年前の殷時代ににも
すでにあった。
 この思想は、長い年月と経験を経ていくうちに次第にかたまり、生まれた年月と、木・火・土
・金・水の五気、すなわち中国でいうところの五行を結びつけて吉凶の判断をする方法がまとま
った。そういう思想を根底において、人事百般の進退にまで応用しよういうのが気学のたてま
えである。
 ことごとくの森羅万象を五行に当てはめて考える思想を五行説といい、そういう考え方は根拠
のないものと主張するひとももちろんいる。とくに易経の本文である上伝・下伝にはなんら五行
説を明記していないから、易と五行は別個のものと説く人もいる。しかし易経の本文を解釈する
うえに、五行の思想を除外しては説明のつかぬ個所がいくつもでてくるのであって、むしろ五行
説は中国の上古からすでにあり、易経の経文ができる以前からあったものと考えられる。
 中国大陸の易学が、朝鮮の百済を通してわが国に初めて伝えられたのは欽明天皇の十四年(西
紀552年)のことで、その五十年後、推古天皇の十年(世紀602年)にはふたたび百済から 遁
甲方術の書がもたらされた。
 しかし中国の易術がはっきりわが国に根をおろしたのは、さらにそれから百年後のことであっ
た。すなわち文武天皇の大宝二年(702年)、大宝律令が施行され、宮中に陰陽寮が設けられて
からである。
 陰陽寮が設けられた第一の目的は暦日暦法を確立することであって、吉凶の易断は二の次であ
った。それが徳川時代になり、加茂家、土御門家が易家として権威を誇るにつれて、易占の道は
すこぶる盛大になった。
 一方、中国大陸で易学が最も充実したのは漢・宋の時代で、とくに五行易をまとめあげたのは
漢の京房といわれ、その京氏易は陰陽道の根底になったとされている。その後、明・清の時代に
なるとむしろ衰え、かえって、それを輸入したわが国のほうで易の研究が盛んになった。
 気学は易学から派生した実用的な一部門であって、気学としての体系を今日のようにまとめあ
げたのは中国ではなく、むしろわが国においてであった。しかし徳川末期から明治初期にかけて
の易断家は、いたずらに煩瑣と難渋な解釈をもてあそぶようになった。大正末期・昭和初期、気
学をわかりやすくまとめて大衆化することをしたひとに、園田真次郎がいた。今日わが国で行な
われている気学は、だいたい園田氏の祖述によるものが多いようである。
 しかし気学によって人事百般を占うことができるといえば、それは言い過ぎである。遺伝や環
境、それに受けた教育も無視することができないし、社会・世情の成り行きという大きいファク
タ−もある。しかし気学によって予断されたことが、人事においても、家相上においてもかなり
の確立で適中しているという事実と、経験主義からいって、気学が人生の大きい指針になるとい
うことはいえる。
服部龍太郎著 開運・気学入門より

五井蘭洲 中井竹山
儒学者。諱を純禎、字を子祥、通称を藤九郎
といい、元禄10年(1697)から宝暦12年(1762
)までの66才の生涯を送った。父の五井持軒は
大阪の儒者である。五井蘭洲は三宅石庵に師事
した。著「非物篇」「万葉集詁」「古今通」
「勢語通」「源語提要」「読史訪議」など
江戸後期の儒学者。名は積善。甃庵の長子
。宋学を五井蘭洲に学ぶ。後に懐徳堂の学
主。著「草茅危言」「逸史」「社倉私議」
「竹山先生国字牘」「非徴」など。
(1730〜1804)
(広辞苑より)     ↓
佐藤一斎の思想 佐藤一斎
⇒は流れ!
三宅石庵五井蘭洲⇒中井竹山⇒
佐藤一斎⇒佐久間象山⇒吉田松陰
江戸後期の儒学者。名は坦。別号、愛日楼。
美濃岩村藩の家老の子。中井竹山に学び、
朱子学を主とし、陽明学に傾く。林家の塾長、
昌平黌しようへいこうの教授となる。経書に
訓点を施し、世に1斎点という。著
「古本大学旁釈補」「言志四録」「愛日楼文詩」
など。(1772〜1859)
著作:『言志録』
(広辞苑より)      
佐久間象山(気学に関係有り) 佐久間象山(気学に関係有り)
幕末の思想家・兵学者。信州松代まつしろ藩士
。名は啓ひらき。通称、修理。学を佐藤一斎
受け、また、蘭学・砲術に通じ、海防の急務主
張。1854年(安政1)門人吉田松陰の密航の事に
坐し、幽閉され、64年(元治1)幕命によって上
洛、攘夷派の浪士に暗殺された。著
「海防八策」「省〓録せいけんろく」
など。(1811〜1864)
(広辞苑より)
「省〓録せいけんろく」


吉田松陰(気学に関係有り) 吉田松陰(気学に関係有り)
松下村塾の門人・関係者下記にリンク。

吉田松陰を掲載したかと申しますと平山喜堂
先生の講義(ビデオに保存)に、名前が出て
くるからであります。吉田松陰も気学を知って
いたと話しをされた記憶があります。
兵学には必ず気学も入っているのです
幕末の志士。長州藩士。杉百合之助の次男。
名は矩方のりかた、字は義卿、通称、寅次郎
。別号、二十一回猛士。兵学に通じ、江戸に
出て佐久間象山に洋学を学んだ。常に海外
事情に意を用い、1854年安政1)米艦渡来の
際に下田で密航を企てて投獄。
のち萩の松下村塾しようかそんじゆくで子弟
を薫陶。安政の大獄に座し、江戸で刑死
(広辞苑より)享年30歳(書籍より)
歴史を動かした人物。
吉田松陰 桂小五郎木戸孝允たかよしの前名。】
吉田松陰 松下村塾の門人 に優秀な人物が
大勢いる。↑クリック
松下村塾(しょうかそんじゅく)←読み方

松下政経塾 松下幸之助氏が上記を参考にして
作った。

山口県の桂小五郎と鹿児島県の西郷隆盛
結び付けたのが、
坂本龍馬である。
俳優 武田鉄矢の好きな坂本龍馬である。
政治家。長州藩士。初め桂小五郎。のち木戸
貫治・準一郎と改名。松菊と号。藩の指導者
となり薩摩藩とともに幕府を打倒。維新後は
参議など要職を歴任、政府内の進歩派の中心
として、版籍奉還・廃藩置県に尽力。岩倉使
節団副使。きどこういん。(1833〜1877)
(広辞苑より)吉田松陰を尊敬していた。
松下村塾(しょうかそんじゅく) 松下村塾(しょうかそんじゅく)
奇兵隊血盟書】
 元治元年秋七月
赤根武人山県狂輔(字、華押、血判) 福田良輔 馬鳥甫選(字、華、血) 藤邸太郎(字、華
血) 松岡循作(字、華、血) 片野十郎 三好軍太郎(字、華、血) 椙山荘市郎 真田市太郎
(字、華、血) 時山直八(字、華、血) 長太郎(字、華、血)木谷循造(字、華、血)
南野一郎(字、華、血) 天宮慎太郎(字、華、血) 伊藤伝之輔(字、華、血) 湯浅祥之輔
(字、華、血) 岡千吉郎(字、華、血) 尾川弥一郎 木邨文太郎 矢野登一  
計21名
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